海外体験談【第1回】

 筆者は現在、兵庫県三田市内の自宅で製薬・CMC関係のコンサルタントをしております。2004年9月から2011年2月までの約6年半、中堅製薬会社の米国子会社で勤務する機会がありました。この度、お世話になっているCM Plus様から執筆依頼を頂き、50歳半ばから単身渡米しその後6年半の米国での勤務経験を中心に海外事情なども織り交ぜ、3回の連載を執筆させて頂くことになりました。 
 
 第一回目は、なぜ、50歳半ばから単身渡米して米国勤務しようと思ったのか? その背景を、職務経歴に沿ってお話ししたいと思います。
 1974年の第二次石油ショックの時に薬学部修士課程(天然物有機化学専攻)を修了し、当初は大手製薬会社に就職予定でしたが、この石油ショックによる経済不況のためその年の採用計画は中止となり、それまで行ったことのない山口県の大手化学・セメント会社に就職が決まり、新しい社会人としての第一歩を踏み出すことになりました。ここでは、中央研究所で新農薬の合成研究を約5年半、主に殺菌剤・除草剤候補化合物を合成し試験農場での効果を確認しながら、当時発表されたHansch-Fujita構造活性相関理論(QSAR)を先輩に教えてもらい勉強し、次の合成展開を考えたのを今でもよく覚えています。見知らぬ初めての地、山口県での勤務でしたが、周りの方々がとても親切でおおらかだったこともあり、楽しく仕事することが出来、結婚して子供も生まれ、両親を呼んで一緒に暮らすつもりで宅地も購入し、さあこれからという時、突然、母を病気で失いました。長男でもあるため、残った父の面倒をどうするか相当悩みましたが、結局父の住む故郷の大阪(豊中市)に戻って同居する決断をせざるを得ませんでした。
 
 1979年暮れに、それまでお世話になった懐かしい山口県の化学・セメント会社を退職し、新たなスタートを切るべく大阪に戻りました。この当時は高度成長の真っ只中でしたが、転職による中途入社は今日の様にポピュラーではなく、日本企業への転職はとても難しい時代でした。幸い、豊中市の実家から通勤可能な所にあった多国籍系化学・製薬会社に、転職することが出来ました。大学から約8年間、好きな有機合成の仕事に携わり、新たな転職先が有機合成や農薬開発で世界的に有名だったので当然そこで有機合成関係の仕事が出来ると思って入社したのですが、残念ながら有機合成できる部署はそこには全くなく、唯一実験できる部署が製剤研究所でした。 
 
 そのような経緯で、30歳から、これまでの有機合成研究とはかなり異なる製剤研究開発に携わることになりました。また、再スタートした転職先が外資系のため、入社手続き書類から英語フォーマットのオンパレード。それまでは英語を使う事など殆ど無しで済んだ所謂日本の会社から、公的文書等に使用する社内公用語は英語という外資系の会社に移った時のカルチャーショックは相当なものでした。また、入社後は、自分より年下の研究者に初めて経験する製剤研究を教えてもらい、実験後は機械洗浄など下積み仕事もしながら技術習得に注力しつつ、週三回の終業後の英会話と定期的なレベル進捗テスト、年4回の英語での本社へのquarterly report提出と、ハードな仕事でしたが30歳前半だったこともあり必死で頑張れたと思います。 
 
 そうこうしている中、入社2、3年目の時、初めてヨーロッパの国際学会(FIP)に先輩と一緒に参加させて頂く機会がありました。ヨーロッパの国際学会に参加できたことは、うれしかったというよりも何せ初めての海外出張であり、英語で学会内容をフォローし出張報告をまとめなければならないという重荷で精神的に一杯だったため、学会期間中関連の発表内容を必死で聴きメモを取ったのをはっきりと覚えています。会場はスイス・レマン湖のほとりのリゾート、モントレーだったので、今にして思えばもっとエンジョイしとけばなあ?と、少し悔やまれます。
 
 しかし、幸運にも、このヨーロッパの国際学会への出張報告書が顧問の方の眼に留まり、それがきっかけで、その後、1年間アメリカの大学と引き続き半年間アメリカのグループ会社に留学・研修させて頂くという、海外留学のチャンスを頂く機会に恵まれました。

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