【第4回】オランダ通訳だより

「これもひとつのオランダ紹介・後編 ~水の国~」


今回は、オランダの治水・利水について書いてみたいと思います。

この国の大都市圏は、北海に近い、国土の西側に分布しています。首都アムステルダムや、政治の要衝デン・ハーグ、欧州最大の貿易港を擁するロッテルダムなどで構成されており、オランダの人口の41%、GDPの46%を占めています。そして、そのほとんどが海抜マイナス地域に位置しているため、オランダにとって、治水はまさに国家安全保障問題です。

大規模干拓事業が始まったのは1612年のことで、北海沿いの河口にあるデルタ(三角州)はたびたび水の脅威にさらされてきました。そして1953年2月に、とうとう悪夢の大洪水が現実になります。同時発生した暴風と高潮により、南部の北海沿岸地域や内陸部の堤防が150か所以上決壊して、15万ヘクタールを超える土地が浸水しました。7万人余りが家を失い、1800人以上が命を落とし、47000頭の家畜と14万羽の鶏が失われました。

国は、災害が発生した月のうちにデルタ委員会を発足させ、デルタ計画の策定に取り組みました。ライン川河口のデルタを高潮から守るダム・堤防など、13か所に治水建造物を建設する計画です。そこから40年余りの歳月をかけて、各プロジェクトが実現されていき、最後の建造物であるマエスラント可動堰が1997年に完成して、一大国家計画は幕を閉じました。

しかしその後、地球温暖化による海面の上昇、隣国から流入する河川の増水という新たな課題が持ち上がります。この国が再び惨状に陥るのを避けるべく、2007年に、政府の助言機関として第二次デルタ委員会が立ち上げられました。長期にわたって気候変動に耐えられる国土を確保するため、堤防の強化から国土設計の物理的・行政的修正まで、広範な施策が検討されて、2012年に法制化されています。

当時仕事で、同委員会の2008年度答申を全訳したのですが、その長期遠大な構想と国土を守ろうとする意気込み、多角的で具体的な施策は、移住先がオランダでよかったと思わせるほどに頼もしい内容でした。しかし、実際の海面上昇が当時の予想を上回る速さで進んでいるため、それ以降も継続的に計画が修正されています。

主要河川から小さな村を流れる運河、小川に至るまで、オランダの地表水は、すべて水門や揚水ポンプで水位が調節されています。季節によっては、数センチ単位で調節が必要な地域もあります。大雨で河川の氾濫が予想されるときは、氾濫原で放牧している家畜を移動させて、予定したタイミングで安全に氾濫させます。6、7年前だったと思いますが、ドイツが記録的豪雨に見舞われたときに、ライン川支流のワール川を計画的に氾濫させました。水が引くまでに1週間ほどかかったので記憶に残っています。

なんだか、遠い外国の話だと思われるかもしれませんね。でも、オランダの治水技術で、日本全国の治水・利水が近代化されたことはご存じでしょうか。オランダの土木技師、ヨハニス・デ・レーケ(実際の発音はデ・ライケ)が、1873年から30年にわたって日本に滞在し、お雇い外国人として全国各地で治水(河川改修)・築港事業に取り組みました。北から順に、群馬、千葉、東京、富山、福井、岐阜、愛知、三重、滋賀、京都、大阪、鳥取、徳島、福岡、宮崎での実績が知られています。

主なプロジェクトは、西では大阪市上水道設計、淀川改修、大阪湾入口の防波堤設計、滋賀と京都をむすぶ琵琶湖疎水の設計。中部では、長野・岐阜から愛知・三重へと流れる木曽三川の分流工事(洪水防止)。東は、東京神田の下水道整備などがあげられます。明治天皇から、「我が国の水利事業に無数の貢献をした」と功績を称えられ、夫婦でたびたび皇居に招かれています。また、内務省勅任官技術顧問にも任命されて、1889年には瑞宝章勲四等、のちに勲二等を授与されました(なお、日本語ができない彼の仕事を陰で支えていたのが、優秀な通翻訳者たちであったことは、言うまでもありません)。

 

 

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