理系人材のための美術館のススメ【第4回】

第4回「芸術の垣根と、人が価値と呼ぶもの」

 美術館にあまり足を運ばない方向け、「理系業界に美術館のご利用をプッシュしてみよう」という本コラム。今回が4回目です。夏は過ぎましたね! この原稿の掲載時には美術館散歩に実にいい季節のはずです。
 前回は、とっつきにくい現代美術についてぼんやり眺めて「まあ世の中いろんな作品があるよね(※意訳)」と納得したところなので、今回はそんな「いろんな」を前に、ついつい考えてしまう疑問をもうちょっとだけ先に掘り下げて、実際に美術館散歩をしているときのハードルをさらに下げてみようかと思います。

【これが芸術かどうか、という大いなる謎】
 先だって、恵比寿にある都の写真美術館に行ってきました。
 念のため補足しますと、写真は一応美術カテゴリに入ります。芸術という上位カテゴリがありますが、芸術が舞台とか音楽とかパフォーマンスとか、いろんな表現を含む中で、「視覚に訴える芸術」が美術とされているため、写真は美術に入るという寸法です。
 …しかしそうとわかっていても、何度訪れても違和感があるのが写真美術館。これほんとうに美術品でいいか?…という疑問が尽きないというか、いやこれはさすがに単純な撮影資料だよな? 撮った本人も絶対否定するよな? と突っ込んでしまう写真があまた収蔵されているせいで、線引きがものすごいもやもやするんですよ、あの場所は!
 もちろん、美術的価値のある写真というのは存在します。写真機の登場は当然画壇に大きな影響がありましたし、画家兼写真家なんて贅沢な方もいますし。私自身ソール・ライターなんか本邦初回展示に行って写真集持ってる感じでLOVEですから、写真美術を否定するつもりはありません(まあライター自身も自分の写真を芸術だって言ってませんけどね…)。
 でもでも、理系脳で素直に考えたら「歴史的価値のある写真資料」と「美術品」は別モノだよね、と思いません?
 この点では普通の絵画も同じで、ピカソだろうと横山大観の作だろうと「落書き」は「落書き」のはずです。美術的価値はないのでしょうが、いつ、誰と一緒に描いた落書きかわかれば、資料としては一級の価値があるでしょう。希少性も高く、見たい!という人はきっとたくさんいます。展示されてもいい。でも美術品ではないはずなのです。モノによっては「いいや、さすが芸術的な落書きだ!」…というご見解もありえますが、だったら落書きと称するのはやめろ、ということになるかと(バンクシーとかはそういう感じですね)。

 このコラムで薦めているような、ぶらり美術館散歩をすると、この「え、なんでこれ美術館に飾られてんの」「マジでなんで芸術なのこれが?」「冗談だと言ってほしい、これただのメモ!」というもやもや(※現代美術では特に多発しやすい)には、おそらくどこかでぶつかります。「現代美術館内に従業員が置き忘れただけの眼鏡が入館者にしげしげ鑑賞されてしまう」事態は、現実に起こりましたしね! だから考えてしまいませんか。
 作品を芸術だと決める要素って、なんだろう。
 それがイマイチ分からなくて「マジでなんで芸術なのこれが」って思ってしまうのだろうから、うん、解説をちゃんと読もうか…と考えてしまう、この罠!(罠です) 

【結局のところ共通価値なんてものは俗っぽくなる】
 たとえば、ある男がたった一人で製作した唯一の絵が、男の死後誰にも見られることなく、今なお世界のどこかに誰にも知られず眠っている。…としましょう。
 仮にこれが日の目を見た時にはもう「圧倒的なまでに素晴らしい作品」だったとして、今現在これを美術品と呼ぶか否かは、見解の分かれるところだと思います。哲学命題に「人っ子一人いない森の中で木が倒れた時、その音は存在するか」という有名なものがありますが、それと似ています。要は、「美」だの「音」だのというものが、認識されて初めて存在するものなのか、実存性を持つなにかであるのか、という話ですが、ここでは私たちに認識されてない場所の架空のブツの話は遠い彼方に置きましょう。うん、架空だから。理系脳で「たぶん確固とした芸術性というものが存在するのであろう」と考えるのが間違いのもとです。
 遠い彼方に実存的芸術性を置いてしまうと、芸術なんてものはまず誰かに観てもらって、評価されてなんぼ、となります。だって実際によく聞くじゃないですか。「○○は美術学校を退学した後も絵を描き続けたが、当時のサロンからは『こんなものは絵ではない』と一蹴された」「評価されたのは彼の死後で、長いあいだ彼の作品は埋もれていた」…みたいな説明。そして後々そんな説明が成されるだけまだ良くて、「『こんなものは絵ではない』と一蹴された上、そのままの評価で存命中も死後も絵が売れなかったただの人」だって、この世にはごまんといるわけです。
 読者の方の周囲にも絵を描く方がいらっしゃるかもしれませんが、それは本人含め「趣味」と称することが多いでしょう。これが趣味の絵ではなく「美術品」と呼べるか否かは、結局「市場価値」があるかどうかで判断されます。絵描きがお金を貰っているプロなのかアマなのか、という話です。
 プロの画家なら画廊で扱ってもらったり、個展を開いたりして売れてなんぼで、グループ展を開いても誰も買わない絵であれば、それは趣味の一品ということになるでしょう。もっと昔であればパトロンがついて経済的に支えてくれたり、お抱え絵師として衣食住の面倒みてもらったり、なんて展開でないと画家としてやってはいけないわけです。

 つまり、美術品であるかどうか判断するのは「赤の他人」もしくは「市場(マーケット)」。そして売れなきゃ、価値としては子供のお絵描きと大差ない、ただの絵ということになるわけです(本人が「これは芸術だといってるだろ!」って言い張る場合もありますが、だいたいそういう時、周囲は「そ、そう…」と返してそっとしておくだけです)。

 架空の話を取り除き、現実的に誰もが確認できる実際の世界では、そうやって「価値」は「価格」に変換されます。大ッ変に俗っぽいのですが、まあ志だけで作品は芸術に昇華はしませんし、誰かが「お金を払ってもこれを得たい!」と思ってくれることが芸術の前提ではあるのだと思います。
 もちろん、「主人が生前描いてくれた私の肖像画(はあと)」といった個人の価値は存在します。でも「この画はどんなものより価値がある」と思うこの女性にとって、画が芸術か否かなんて、百年後の天気より無関係な上、売ることもないでしょう。彼女の死後、遺族が競売にかけたら値段はついて、そこではじめて芸術的価値は計られることになります。芸術的価値というのは、社会的な価値に他なりません。
 流行りや売れ筋など意識せず、清貧な生活の中で静かに製作された「お金ではないんだなあ…」的作品を、なんとなーく日本人は好きな感じがしますが、画家はカスミ食ってる仙人じゃないので、食わないと死にますしね。 
 そう考えると、たとえどんなに自分にとって謎の美術品でも、うまく時流とマーケットを読んで製作され、(たとえ投機でも)値が付いた作品である以上、お金を払った方や評価した方の価値観に対し「うむ」と頷いておくのがたぶん大人です! 払いたいと言った人が払った値段がついてるんだろう、知らんけど。と言っておけばOK。
 

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