2020.10.23.FRI

新技術 / その他

私が経験したあれやこれやの医薬品業界【第1回】

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執筆者:鴫原 毅

簡単な自己紹介

 医薬品業界に携わり、かれこれ40年以上が経ちました。あんなこともあった、こんなこともしたと思い出が多々あり、すべてを記憶しているわけではありませんが、本当にいろいろな局面での仕事をさせてもらいました。
 このGMP Platformでコラム執筆の機会を頂き、昨今の医薬品業界に関して、私自身の経験や記憶に残った出来事などを散りばめながら、独自の視点で書きたいと思っています。

 その前に、コラムを執筆する私が今までどのような経歴であるかを紹介したいと思います。
 生まれは東京で、大学卒業まで東京の実家暮らしでした。高校、大学の7年間野球部(高校は硬式、大学は準硬式)で、ほとんど毎日、バットとボールを握っていました。遠い、遠い先には甲子園があったのですが、一回戦で高三の夏は終わりました。今では考えられませんが、当時は皆で初めて酒を飲んで、行く夏を惜しんだのを覚えています。大学の農学部畜産獣医学科に進学したのは、競馬が好きであり、単に馬の近くにいたかったからでした。試験勉強の合間に競馬のデータを整理し、週末は場外馬券売り場に足を運びました。JRAの就職試験に落ちて落胆していた時、第一製薬(現第一三共)に拾ってもらい動物薬の営業(当時はプロパーと呼んでいました)から医薬品業界での仕事が始まりました。数年後、海外事業の部署に異動になり、その後は、ほとんど海外事業に携わりました。人間万事塞翁が馬。結果的にはJRAに就職できなくてよかったとも思っています。

 日本の製薬企業が海外展開の黎明期であった1980年代後半に米国ニュージャージー州に駐在し、旧第一製薬の代表的薬剤のキノロン系抗菌薬のライセンシーだったJ&Jと第一製薬本社をつなぐ役割に続き、第一製薬の米国自販事業の立ち上げを行いました。グローバル市場では全く存在感がなかった日本の小さな製薬企業が世界最大の医薬品先進国の米国市場に入っていくという、高揚感あふれる時代でした。
 1990年代初めはファインケミカル品自販事業の立ち上げでイリノイ州にも駐在しました。医薬品事業もファインケミカル事業も多くの米国人が日本の製薬企業の小さな米国子会社で真剣に事業を立ち上げてくれました。

 日本に帰国後、1990年後半は第一製薬の研究開発管理の部署に異動しました。それまでの自分の仕事、経験とは全く異なる世界に来たという感覚でした。大袈裟に言えばアメリカに異動した時よりも大きなカルチャーショックを受けました。冗談で本社から来たスパイ呼ばわりされたこともありましたが、医薬品の研究開発のプロセスとその労苦を一から教えてもらいました。新たな試みとして、当時業界でトレンドだったRisk-adjusted NPVを導入して、研究開発投資管理の実践を行いました。
 多数の開発候補品を持つMerckやPfizerなどの欧米大手に比べ、開発候補品が少ない日本企業でポートフォリオ投資管理が有効に働くのかという多少の疑念も抱きながらも、各開発プロジェクトを数値化することで開発投資判断の合理的な議論に貢献したかとも思います。
 

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鴫原 毅

鴫原 毅

1978年に第一製薬(現 第一三共)入社以来、約30年に亘り、米国および中国駐在、ファインケミカル子会社での海外販売も含め、主に海外事業を担当。
2007年に統合した第一三共ではアジアおよび中南米地域事業および欧米導出品目の収入責任者、その後、第一三共中国の董事長、総経理を務めるなど、医薬品国際事業に幅広い経験を持つ。
2012~2018年は、日本製薬工業協会国際部長として、主に欧米地域およびグローバルヘルスに関する国際的な業界課題対応を担当。

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